クリフォード ザ 宴会キング

「加藤さあ〜ん、電話やでえ〜。」と下宿のおばさんの声がふとんの中までとどいてきたのは1月の終わりの寒い朝だった。胸が重いなあと、起きると、センベイ布団のちょうど胸のところに、いつも夜中に窓からやってくる、猫のウェンディがまるまっちくなってねていた。ウェンディをおこさないように、そっと布団から這い出して、1階の電話の部屋におりていった。

僕はそのころ大阪の淡路というところに住んでいた。庶民の町としても名高い淡路でも、これより安い部屋はないやろうというアパートだった。台所もトイレもない、6畳一間の部屋からペラペラのベニアのドアを開けるとスリッパで歩くことになってる、内廊下に出る。それから、共同トイレのにおいを嗅ぎながら、ギシギシ木の階段をおりて、大家さんの住んでる1階のクリーニング屋の裏にある家族用の電話を使わせてもらうのだ。今からそんなに前の話ではないのにまったくレトロな世界だった。

要するに僕は今と同じように貧乏だったのだ。でも、すこしお金は定期的にはいるようになっていたが、車を買うだとか、もっといい部屋にうつるだとかという発想はまったく浮かばなかった。ある時、部屋に帰ると友達たちが勝手にお鍋やパーティをやってたり、友達たちが連れてきた初めて会う人たちに自分の部屋のドアとところで「どちら様ですか。」などといわれることを面白がっていた。まとまった休みやお金はすべて、旅や、放浪山登りに使っていた。

クリフォード登場

「もしもしハルですが。」「ハロー。覚えてる〜。クリフォードだよ。アニル・クリフォードだよ。いま、フェリーから下りて、下関から電話している。これからいくけど泊めてね。」クリフォードだった。韓国を旅行中にゲストハウスで会って、ソウル中をいっしょに遊びまくったスリランカ人なのだ。米軍のGIにもいっぱい知り合いがいるみたいで、米兵しか入れない秘密のパーティや基地にも連れていってもらった。思いっきり陽気なやつで、むちゃくちゃ人なつっこくて、ゲストハウスではもうしゃべりっぱなしだった。ビートルズでもなんでもかんでも歌いっぱなしだった。 冗談を連発して、めちゃめちゃ乗りのいいやつなのだが、どうもどっかで軽すぎて信用が置けないような感じもしていた。女の子に手が早くて、いつもややこしいことになってしまっているようだった。ちょっと調子よすぎるのだった。でも、天然パーマの長い黒髪にスリムな体、黒い顔に大きな目、軽快な身のこなし、なかなかカッコよかった。妙に気があって、韓国にいるあいだ、ずっと一緒に遊んでいた。

軽い気持ちで、「大阪にきたらおいでや」と言ってしまったのがよかったのか、悪かったのか。やってくるというのだ。阪急淡路駅へ迎えにいった。僕を発見すると大そうよろこんでくれた。まさか、僕を大金持ちのぼんぼんと思ったわけではないだろうが、部屋につれてゆくと、さすがにアパートのボロさに驚いたのか、しばらくあっけにとられていた。
旅にでて安宿に泊まる日本人が金持ちではないということは知っていたとは思うのだが、これほど貧乏な生活をしているとは思っていなかったようだ。当てがはずれたということなのだろう。「僕のお父さん、お母さんはイギリスにいて、百科事典のブリタニカの仕事をしている。ほんとよ。」「藤沢というところにね、まえに日本に来たときのホストファミリーがいるね。うん、うん、ほんとよ。」
ということらしくて、にこやかに家族全員がクリフォードを囲んで撮った写真を見せてくれた。一応ちゃんとホームステイもしていたということで安心させておこうという訳だろう。
「ちょっと電話貸してね。」と、その、藤沢という遠い町の家の人や秋田に住むというガールフレンドという人に電話を何度もかけていた。本当に間が悪いことにクリフォードが来たその日に僕の部屋に電話をつけたのだった。

クリフォード・ザ・宴会キング


今回は日本にはただ遊びにやってきたという話なので、しばらく僕の家に滞在して、そのあと藤沢か秋田か、それとも友達がいるという奈良のお寺にいくのだろうと思っていた。

変なやつがとびこんできたというのは友達の間にあっという間に広がり、いろんな友達が以前にもましてやってきた。それから毎日が宴会状態だった。クリフォードはお酒も好きで、酔えば、めちゃめちゃうまいギター片手に何でも歌いまくり、僕の友達の女の子を口説きまくった。「あかん、あかん。こんなやつに乗らされとったら。」と思っていても、気がついたら、彼の魔法のような話術に引っかかってしまって、歌ったり、踊ったりしてしまうのだ。明石家さんまスリランカ人になって、家にやってきて、英語と日本語のちゃんぽんで息もつかづしゃべりまくって、ギター弾いて、歌いまくって、みんなが踊りまくっているという状態を思い浮かべてもらうといいかもしれない。

6畳一間のボロアパートはかくてディスコかライブハウスになってしまった。
彼のしゃべる英語はインド系の英語で、なまりは多少あるものの、なかなか正確な英語をしゃべっているようであったし、日本に到着以来の日本語の進歩のぐあいはすさまじいものがあった。どうして、こうインド方面の人はこんなに言葉の才能があるのだろうか。

「そうね。そうね。そうよー。」と女の人から習ったとしか思えないおねえ言葉を連発しながら、僕らがちょっと難しい日本語はわからへんのんちゃうかと思って、早口でしゃべっていても、ちょうどいいところで相槌をいれるのだ。そうして、大きな、まつげの長い目でパチリンとウィンクをしてみせるのだった。

どうやら彼はほとんど文無しのようだった。食べものや飲み物は僕が買ってきていた。そのくらいはなんとかなっていたのだが、しばらくして、「小遣いも貸してほしい。」と言うようになった。「大丈夫、絶対かえすね。藤沢の家にホームステイのときに預けたお金がまだいっぱいあるよ。こんど取りにいって、それで返すからね。ほんとよ。ほんと。」あっちこっちに電話をかけるからなのか、クリフォードあての電話もよくかかってくるようになった。僕が貸してあげたなけなしの2,3万の小遣いで、どうやらミナミの外人バーに遊びにいっているようだった。ときどき、僕にとってはなさけないことに真夜中にタクシーで帰ってくることもあった。朝起きるとクリフォードのほかに、知らない女の人や外国人の男の人が横に転がって寝ていることがよくあった。


花嫁ボロアパートに

「ハル〜、僕ね、あのね、僕のね、奥さんがここに明日やってくるよ。しばらくここでいっしょに暮らすね。いいでしょ。」え〜!!いつのまにか国際電話をして段取りを決めてしまったらしい。「堪忍してくれ。」といっても、もう今日フェリーに乗ってしまっていて連絡も取りようがないのだ。こういうのは運命というやつなんやろうか。

ゴロゴロのついたでっかいでっかいスーツケースを持って、新婚旅行の時に着るような白いぱしっとしたスーツを着て、やってきたのは宋子(ソンジャ)という名前の女の子だった。僕も韓国で何度もあっていた、よく知っていた子だった。実はこの宋子は僕のことが気にいっていたみたいで、2,3人の同じ位の年格好の何人かの女の子たちと僕は韓国でディスコへいったり、李花女子大へ遊びに行ったりしていた。そのときクリフォードも途中からぐいぐいと参加してきて、あっちこっち彼の得意な、普通ではいけないような場所に連れていってくれたという訳だ。


宋子は他の女の子たちといつも僕たちのいるゲストハウスというか、いつも泊めてもらっていたおっちゃんの家に遊びにやってきていた。あとでわかったことなのだけど、どうやら結婚相手になりそうな外国人の男の人を探しにきているということだった。もちろんそれだけが目的ではなかったのかもしれないが、23,4になってしまったら、韓国ではもうみんな回りの子たちは結婚してしまっているのだ。そんな年になってしまったら、もう結婚相手はなかなかみつからないのだそうだ。まだ、韓国は結婚してすぐに家にはいってしまうことが多くてキャリアウーマンという訳にもいかないそうだ。それであまり年を気にしない外国人を探して結婚してしまおうという計画だったのだ。

そういえば宋子のグループだけではなく、いろんな子たちがお目当ての外国人を訪ねてたくさんそのゲストハウスにはきていた。それぞれの部屋でクリスマス会をやったりどっかへ飲みにいったりで、ちょうど米軍キャンプに群がる子たちみたいな感じだった。みんなどこかで結構英語を勉強してきていてかなりしゃべれる子もいた。


あるときクリフォードのところに訪ねてきていた女の子はクリフォードの友人のGIと付き合っていたのだが、彼がアメリカに帰ることになった。連れて帰ってもらって、奥さんになれると思っていたらしいのだが、ご多聞にもれず、別れ話になって、一晩中泣き明かしていた。クリフォードは一晩中彼女をなぐさめていた。やさしいやつなのだった。


宋子は自分で作ったというお雑煮やケーキを持ってきたりしてくれていて、僕がソウルにいる間は毎日会っていた。どうやら僕が帰ってからクリフォードと急速に接近したみたいだった。「宋子もカトリックね。僕もカトリックね。問題ないね。」宋子も嬉しそうに、「赤いバラの花をもって、プロポーズしてくれたよ。」どうやら正式に結婚してしまったらしい。問題ないねはいいけど、僕にはちょっと問題だった。

6畳一間居候新婚生活

僕の部屋はどうやら新婚さんの部屋になることになったみたいだった。こうして6畳一間の台所もトイレもない部屋で3人が暮らし、僕の友達も3,4人がいつもやってきてゴロゴロしているというまるでなんかのクラブの部室に住んでいるかのような生活が始まったのであった。おまけに毎日やっぱり宴会なのであった。

ある日仕事から帰ってきたら、部屋の様子がガラリと変わっていた。クリフォードと宋子はこたつに入って、お鍋を前ににこにこしながら、「お帰り。」を言ってくれた。「なんなんこれは?」「気にいった?ちょっと掃除したね。」
確かにお世辞にもきれいとはいえないわが家だったけれど、人の家にきたような変わりようだった。
冷蔵庫の位置は変わってしまっていて、宋子の服がいっぱい天井からぶらさがっていた。窓にはかわいいカーテンがさがっていた。そして、ビールのプラスチックケースで作った力作のベッドが作ってあり、それは彼ら2人のベッドなのであった。僕はその下のコタツに足をつっこんで寝たらいいということであった。そのころ僕は粗大ごみの日にひらってきた東芝の電気釜を使っていて、それでご飯を炊くだけではなくて、惣菜の煮炊きや鍋物、蒸し物、はてはパンまで焼けることを発見していた。毎日それで食事を作っていたのだが、この2人はそのことに驚くわけどもなく、さっさとその使い方をマスターしてしまったらしい。その電気釜のお鍋のなかには、「冷凍庫の中に肉をみつけたから、今煮てるよ。」という肉の塊がぐつぐつと音をたてていた。この肉はある会で北海道の人にもらった羊のもも肉だった。その人はこの羊に雄一郎くんという名前をつけてかわいがっていたということだった。さすがにそんな名前といかに愛していたかということを聞かされては食べづらくて、長い間冷凍庫にいれたままになっていた。


チンとオーブントースターがらキャンプ用のシェラカップに入った紅茶とよく焼けたパンの耳がでてきた。
「どうぞ。どうぞ。飲んで。食べて。遠慮しないで。」
どこでパンの耳がただで手に入るかも知ったらしい。宋子が煮あがった肉を包丁でそぎきって、醤油をかけてみんなで食べた。そしてまたもや焼酎や安もんのウィスキーが登場すると、またいつもと同じ宴会が始まってしまうのだった。


そんな生活が一月も続いたのだが、僕もそんなにお金が続くわけもなく、クリフォードに貸すお金もきびしくなってきた。おまけに、どうやら僕の留守のあいだはあちこち長距離の電話を掛けまくっていたみたいだった。クリフォードがかけた電話代は一月8万円になった。おまけのおまけに、「あのね。宋子のお腹に赤ちゃんができているよ。ほんと、でも大丈夫。日本で生みたいね。大丈夫?」なんてことを平気で言うのであった。日本って、このアパートのことなんやろうか?クリフォードは簡単に言うけど、2人とも外国人やし、彼がいうようには、「生まれてきた子は日本人になるでしょ。」なんてわけはないのだ。それに出産費用はどうするのだ。すくなくとも50万はかかるぞ。これは何が何でもクリフォードにも働いてもらわないと。


英字新聞で探してみると、梅田の英会話学校で講師を探しているということだった。もちろん彼は観光ビザで来日しているので、働くことは法律上ではできない。もちろんもぐりで働こうというわけだ。きっと英米人がいいのに決まっているから難しいかもと思っていたら、なんのことはないあっさりと合格してしまった。いつもの陽気さと話術の魔法でまんまと成功したみたいだった。それはよかったのだが、やっぱり最初の給料が入るまでは交通費や食事代や小遣いは僕の負担なのだった。



どうすんの?クリフォード


また、一ヶ月たってしまった。もうクリフォードの観光ビザはあと一月しか残ってない。宋子のお腹は大きくなる、お金はたまらない。医者にもかからなくてはいけないし、いったいどうなるのやろ。宋子の方も観光ヴィザできているはずなので、あと二ヶ月しか日本には滞在できない。日本で生むのは無理ちゃうか?こっちはかなりやきもきしているのに、当の本人たちは、「子供の名前は男の子だったら、日本人の名前にしよう。まり太というのはおかしい?ほんと?」などと、いたってのんきなのだった。さすがに心配になって、友達に相談したりしたが、「やっぱり日本では無理やで。」という当たり前の意見が多かった。「藤沢にすんでいるというホストファミリーに電話してみたら?」ということでクリフォードに電話番号をきくのだが、なかなか教えてくれない。どうもあやしいのだ。番号案内で聞いて、クリフォードのことを切り出すと、「クリフォードねえ。もう大変だったよ。うちにもいっぱい借金があるよ。困った人でねえ。2,3ヶ月いて、借金をいっぱいこさえて、どっかへいってしまったんだよ。またお金を貸してほしいって電話をかけてきたけど、もういまさらねえ。」とずいぶん冷たい。なるほどやっぱりそういうことだったのか。

秋田の女の子も似たようなものだろう。このあいだ彼の電話を聞いていると、「車をかったって?セリカ?そんなのもったいないよ。そんなことにお金を使うより、友達を大事にしたほうがいいね。ほんとよ。僕にお金を貸して。」などとやっていたからだ。すると奈良に住むという友達も当てにならないのか?奈良の大きな寺に友達がいるというのは、居るというところまで本当だった。さすがにクリフォードも心配なのか、向こうの家の人にも相談したらしい。向こうから電話がかかってきた。ずいぶんこっちが聞いている話と食い違っていた。大きなお寺の住職さんかなと思っていたら、兄弟がそのお寺に勤めているというだけのことだった。僕はお金もちで、宋子の出産費用を出すということいなっていた。なんでこんなすぐバレるようなうそをつくのだろう。向こうの人たちもちょっとバーかなんかで話をしてから、遊びにくるようになっただけの間がらのようだった。たのしいときだけの付き合いならいいのだが、しばらく付き合うと彼のお金や人間関係のだらしなさがわかってくる。親切な人らしい。なんとかしてやろうという気持ちが伝わってくる。なんて日本人って人がいいのだろう。クリフォードはともかく生まれてくる子供がかわいそうだ。

「どっかでアパートを借りて暮らしたいよ。」とクリフォードは前向きそうなことも言う。もちろんそれができるならばそうしてもらえば、こっちも助かるのだが。アパートの家賃や保証金はいったい誰がだすのだ。出産費用は?ヴィザは?生まれてくる子は?とりあえずいったん韓国かスリランカに帰って、出産してから、出直したほうがよさそうだと思うのだが、それを言うとクリフォードは怒りだすのだ。どうやらクリフォードは前回に韓国をオーバーステイしてしまって、しばらくは韓国には入国できないらしい。それに正式に結婚してしまったので宋子も国籍はスリランカになってしまって、今度韓国に帰っても外国人扱いになってしまうのだそうだ。それでほんの一ヶ月ぐらいしか合法的には滞在できないのだそうだ。おまけに韓国までの旅費もスリランカまでの旅費もないのだ。韓国にもスリランカでも出産はむずかしそうだ。

なんとまあ、もう韓国にも、スリランカにも帰れない、無一文の状態で、ちょっと知り合っただけの超貧乏人の僕のふところをあてにしてはるばるやって来たということなのであった。日本のヴィザをもういちど取りに香港か台湾かへ行くという方法もあるけど、台湾でもオーバーステイしてしまっているようなのだった。
それに香港にゆく旅費をあるわけないのだった。宋子をしばらく奈良の人の家に預かってもらうことにした。クリフォードはうちの家から英会話講師の仕事にかよった。こんなに心配しているというのに、本人は呑気に酒をのんで帰ってくることが多かった。

「大丈夫よ。今日はおごってもらったね。ほんとよ。」という日が何日もあった。給料がでたはずなのだが、いくら入ったから、とか、これからどうするとかの話はなにもしてこなかった。逃げてる気がした。もういよいよヴィザの期限がきれそうになった。このまままた、日本もオーバーステイになってしまうのだろうか。英会話学校の校長先生に電話して相談した。なんとクリフォードはこの校長にも給料を前借りしていて借金があった。給料から引かれていたのだ。毎日、ミナミのバーに飲みに行って、人におごったりしていたのだ。いつもいい格好をしてたいのだ。本当に困った人なのだった。

奇跡の逆転か?


校長の紹介で三重のテーマパークの社長に紹介してもらうことになった。その社長はクリフォードに興味を持ったみたいで会いたいといってきた。飲み屋で一席を設けてくれるというのでクリフォードと会いにいってきた。


社長の話ではテーマパークの中で忍者の格好をしてショーにでてほしいということなのだった。黒い顔の忍者が飛び回るのがおもしろいという思いつきだ。契約するのならワーキングヴィザが取れるように書類をそろえてやろうという、願ってもない話だった。断る手はない。これなら宋子もクリフォードも日本で住める。給料もいいだろう。アパートだって借りれる。出産もできる。やるしかないのだ。しかし、クリフォードは「カッコ悪いね。」と嫌がっているようだった。「やります。」と答えたあとの帰り道、ずっとクリフォードは「カッコ悪いね。やりたくないね。」といっていた。でもやっぱりやるしかないのだ。

しばらくして、梅田の英会話学校の仕事をきれいに終えて、クリフォードは三重のテーマパークに旅立った。ほぼ三ヶ月ぶりにがらんとした部屋を掃除して二、三日ほっとしたのもつかの間、電話がなった。「明日、大阪空港から香港に行くね。今日これから行くから泊めてね。」という電話だった。テーマパークの仕事をする前にヴィザの延長をしにいくということだった。明日はツアーの関係で朝はやく空港で集合するというのだ。とりあえず順調でよかった。夜遅くなって、大きなスーツケースとともに宋子とやって来た。「なにもかもみんなうまくいっているよ。大丈夫。ほんとよ。」ということだった。よかった、よかった。朝早い出発だというので、一晩中このあいだまでの同じ様に騒いで、寝ないで朝がきた。ちょっとクリフォードの様子がおかしいように思った。もう部屋を出発しなければ、9時の空港の集合時間に間に合わないというときになって初めて、困った顔をした。


「ツアーのお金ないよ。空港でお金を払ってチケットをもらうの。いま、全然お金ないね。六万円貸してほしい。絶対かえすから、ほんとよ。」ほんとうにこの人にはいつも驚かされる。ぼくもそんなお金すぐにおいそれとは出てこないのだ。しかも、なんとヴィザの期限は今日までなのだった。仕事には行かんとあかんし、気にはなったが、そのまま二人をおいて仕事に行った。僕にも生活があるのだ。とりあえずクリフォードと宋子は空港に向かった.。
少なくともそのハズだった。

それから

それがクリフォードと会った最後だった。その日、部屋に帰ってみると、僕の愛用のギターがなくなっていた。
しばらくして香港からはがきが来た。ツアーのメンバーの誰かに借金をして、とりあえず香港にはたどりついたらしい。教会にお世話になっていて、宿と食事はなんとかなっているという。ギターを持っていった侘びが書いてあった。でもやっぱりお金を送ってほしいというはがきなのであった。僕はそこまで人はよくなかった。それにテーマパークの社長からお金を借りたままいなくなったという連絡が来ていたからだ。


そのまま何ヶ月も過ぎてから、奈良の人から電話があった。宋子はその日、空港でクリフォードと別れて、奈良の人の所へ行き、お金を借りて、韓国へ行き、実家で子供を生んだらしい。実家では外国人の、それも黒い人の子供を生んだということで、生んだあとすぐに追い出されたという話だ。もちろん、外国人になった宋子とその子はオーバーステイということで、スリランカに強制送還になったらしい。宋子は赤ちゃんとともに、初めて訪れる、誰も知る人のいない、パスポートだけの母国にいったこといなる。クリフォードの親戚や友達という人たちだけをたよって知らない国で暮らすことになるのだ。

肝心のクリフォードはそれから行方不明になったままなのだ。ヨーロッパにいったかも知れないという。

僕からは25万ほどの大金とギターを奪って、あちこちに借金の山と心配を残して、クリフォードはいなくなった。後にはボロアパートには不釣合いの宋子の大きなピンクのスーツケースが残った。