モンゴルパンの逆襲


モンゴルパンの逆襲
犬島モンゴル
真夏の太陽がじりじりと地面を焼いていた。海にそそがれた光は鏡のようにべた凪の海面からはねかえって、ぎらぎらと僕らの目のさしてくる。風はまったくなく、空は真っ青だった。
この夏僕らは劇団維新派の公演をメインとするイベントで、犬島という岡山県牛窓の沖4キロに浮かぶ、人口7,80人ほど老人が住むだけの島に来ていた。劇団の役者やスタッフにまじって、恒例の屋台村の建設に維新派のつながりの大阪の濃い連中がやってきていて、まことににぎやかな具合だった。7月の後半の6,7回の公演のために、6月から建築足場用の単管で大掛かりの舞台を組んだり、芝居の稽古や、丸太とレンガの建物跡を利用して屋台村をつくるために、役者や屋台の先乗りのスタッフが犬島にはいりこんでいた。この島にはかつて、明治の終わりから大正時代にかけて、銅の精錬所があって、最盛期には3000人以上の人が住んでいたらしい。さらに岡山方面から船に乗って、毎日、通勤する人たちもいて、島は人であふれかえっていたのだそうだ。もはやそのような賑わいはなく、店といっても2、3軒の日曜雑貨店や食堂があるだけだった。 郵便局跡の建物や空き家を借りて屋台を出す大阪のメンバーやライブの出演者がキャンプのような生活をしていた。島には立派な家もあるけれど、たいていは小さな家がいっぱい、肩をよせあうように立ち並んでいる。もうほとんど誰もすんでいない。この島に本土から渡るには一日6,7便の乗り合い船しかないのだ。
芝居の公演は毎日暑い日中を避けて、夕方の7時ごろから始まるのだが、それまでひっそりとしていた、島も岡山方面からやってくる臨時の連絡船と一番近い宝伝港からやってくる90人乗りの連絡がつくと屋台村にどっと人があふれ、まるでにぎやかだった往事のような大騒ぎがはじまるのだ。そうして、観劇のお客さんたちは屋台村で開演までの時間をすごすのだ。最初はあちこちの店に散らばっていた人たちが僕らのモンゴルパンの屋台の前に行列を作るようになった。3年まえにフライパンひとつの店をだしてから、これで3回目の維新派での屋台なので、インターネット上でも話題になっているみたいで、ありがたいことに、「あれが噂のモンゴルパンだ。 」などと話をしているのが耳に入る。行列は2、30mにもなってしまい、他の店にも迷惑がかかるくらいになってしまった。大きな鉄板で焼いてはいるのだが、実はお客ひとりひとりの顔を見てから焼くので時間がかかるのだ。それで行列になってしまうのだが、傍目には派手な行列になってしまう。みんな一様に「おいしい 」といってくれるのが僕らには本当にうれしかった。
僕らは毎日朝から本土に食材など買出しにいって、夕方からは汗だくになって、鉄板を前にモンゴルパンを焼くいそがしい毎日だった。

モンゴルパンは大阪でモンゴル料理の店をしていた、スーチンドロンさんに郷土料理ということで、4,5年まえにおそわった。モンゴルのイベントをしたときに、あまりにおいしかったので、作り方を教えてもらうことになって、鴫野にあった店に教えてもらいにいった。免許皆伝になって、このパンを日本中に広める約束をした。このパンはドロンさんによると、ふるさとの内モンゴルで食べていたパンだという話なのだが、モンゴル人の中にも知らない人もいて、一度モンゴルの人が屋台に食べに来て、「これはいったいなんというものですか?」と聞かれてドギマギしたことがある。どうやら、内モンゴルの方がよくたべているような郷土食のようなものかもしれない。どっちにせよ、ドロンさんに教えてもらったパンの焼き方からスタートして、いろいろ実験したり、いろんな場所で店をだして研究がすすんで、もうかなり原型をとどめないものになってしまった。簡単にいえば、モンゴルパンとは小麦粉を水で練って、層ができるように練り上げて、平たく延ばして、鉄板で焼くというもので、ナンとかチャパティとかタコスとは全然違って、パイの原型のようなものなのだ。ぷっくりと焼けたモンゴルパンはほんとうにおいしそうだ。お客さんにはいつもできたてのあつあつのパンにシャキッとした野菜と特製の具とソースをかけて食べてもらっている。モンゴルではこのパンを肉のスープにつけて食べたりしているみたいだけど、僕はそれをちょうどタコスのように、レタスやトマトやきゅうり、それに特製の具をはさんで、ピリ辛のソースをかけて、食べるように改良した。屋台で売るときは紙にくるんで手渡す。ゴミはうすい紙だけしかでない。「モンゴルパンってなに?」というお客さんがあつあつのモンゴルパンに最初の一口をガブリとやったときの笑顔がいつも楽しみだ。「うわー!めっちゃうまい!」「サクサクでモチモチやん!」「野菜のジュースとパンがぴったりやん」「このピリ辛のソースもっとかけて!」などとうれしい感想ももらしてくれる。僕らも「おいしいやろー。ほんまにおいしいやろー。」といつしか商売をわすれてしまう。じっさいのところ商売というよりも布教活動のようなものかもしれない。
僕は特に夏、野外で行われる、キャンプインの祭りなどに参加するのが好きで、バンドの関係や個人的な嗜好もあって、ときには、長野や東京や九州など遠くで行われる祭りに参加するのだが、交通費や滞在費がかなりかかる。それで、それまではベトナムの春巻きを売ったり、カレーを出したりして交通費などにあてていたのだが、手間がかかったり、準備が大変だったり、みんなが知っているものだと、インパクトがなかったりで、いまいちやなと思っていた。そこで、モンゴルパンはどこでもある小麦粉でできるし、道具はカッチンコンロとフライパン一つでできるし、手軽なのだった。最初に売ってみたのは、大阪の千早赤坂村であった、まんまる祭りのときだった。フライパンひとつでパンを焼いて、ひき肉と玉ねぎとねぎと味噌で具をつくって、レタスやトマトなどの野菜をはさんだ。2万円ほどの売り上げになった。なかなかの好評で用意していた小麦粉は売りきれた。それから維新派の「水街」の公演のときにも地べたにすわって食べるような店をだして、特に若い女の子には大人気だった。売上はたいしたことはなかったけれど、これはかなりいけるでという感じがあった。そのあと、飛騨高山のお祭りの時や「いのちの祭り2000」や 「阿蘇sora 」の祭りや山口県の祭り、その他小さな祭りなどにも屋台をだすようになった。すべて『せいかつサーカス』のライブのあるときに僕らの交通費を稼ぐためにやっていたのだが、必要経費はすべてうまくクリヤーした。それから、モンゴルパン用の移動用の組み立て式の屋台も作った。維新派の「流星」公演の時には歌う大工の伝さんがくれた6枚ほどいっぺんに焼けるお好み焼き用の鉄板で焼くようになった。ようやく今のモンゴルパンの形ができはじめた。「流星」公演の時からはプロパンガスと大きなコンロと鉄板を使うようになって俄然パワーが増した。維新派人気もあって、かなり人気の屋台となった。このころから行列がすごくなってきた。若い女の子や男の子に混じって、おじさんや年配の人でも並んでくれるようになった。「これはかなりいけるんちゃうん!」という話になってきたのはそのころからだった。それに大阪ブルース界の重鎮モーリさんが得意の鉄の技術でおおきな鉄板をつくってくれた。生地を練るための大きな容器やボールやフライ返し、具を入れるためのタッパーや大きな保冷庫、水のタンクなどいろんなものがそろってきた。なんといっても、爆発的だったのが、2001年の舞洲(マイシマ)フェスタのときだった。これは大阪市がオリンピック招聘のための前祝いイベントとして、やったもので、オリンピックはこけたけど、モンゴルパンには記念すべきイベントになった。おねえが目ざとくポスターで観て申し込んでくれたのだが、運良く採用になって、ガスも水も出店料も市が持ってくれるというありがたい条件で屋台をすることができた。一日目の昼頃から行列が始まって次の日の夜の9時までほとんど、僕らが仕込みをしていて、休んでいる間以外はずっとずごい行列ができていた。へとへとになるまでまったく休みをとるひまもなかった。舞洲には普通の食堂などなく、コンサートや他のイベントにやってきたひとたちもおなかがすけば、屋台で食べるほかはなかったし、他にも屋台がでていたのだが、仕込みの材料不足で早々と他の店が終わってしまっているなか、僕らのモンゴルパンは快調に売れていった。まるでビートルズの公演に並ぶ人たちの行列みたいだったのだ。くたくたにはなったけど、僕らはかなりの自信をつけた。この収益で中古の軽の箱バンを手にいれた。モンゴルパン号だ。すべてモンゴルパンの売上だけで買ったのがうれしかった。そのあとも東京の「武蔵野はらっぱ祭り」、奈良のあやめ池で僕らが企画した「まるまる祭り」や阿蘇の「虹の岬のまつり」、静岡の「平和の集い」、高知の「遊民」その他の祭りすべてで大好評で、僕らも食べてくれた人たちもハッピーになることができた。外国の人もかなり気にいってくれて、一日に4枚も5枚も食べるひとが現れたり、こどもたちがならんでくれたり、いろんな発見があった。具もツナバージョンを増やしたり、ベジタリアン用に野菜だけや。豆腐でつくった具も考えた。
このパンのつくりかたはどうやら僕の推測ではメソポタミアあたり、小麦のよくとれる地方ではじまったのではないかと思う。インドでもほとんど同じ製法でつくられるパラタというパンがあるし、中国にもピンという形で伝わっている。さらにヨーロッパにはパイという形で一般的になっている。パン自体も日本には大陸からは直接はつたわらなかったようだ。日本には米の文化があり、ほとんど必要なかったのだろう。讃岐など米があまりできないところには弘法大師がうどんを中国から伝えたことになっているのだが、パンはどうだろうか。随分あとになって地球の裏側からパンがやってきた感じなのだが、僕らはこれをモンゴルから直接伝わった形で伝えたいなと思っている。弘法大師の跡をついでというのはおこがましいが、すくなくても、買いに来てくれた人の顔を見てから焼くというスローなスタイルで愛情たっぷりそそいだ食べ物を食べてもらって、幸せの種を撒き、みんなハッピーになってもらいたいなと思っている。、こちらの愛をいっぱい込めたものは必ず何をするにしてもきっとみんなを幸せにするものだと思っているからだ。マクドナルドに恨みはないが、そういう愛情でいっぱいの食べものでこの国がいっぱいになったら、愛情のないものを売る会社は出ていかざるを得ないようになるかもしれない。モンゴルパンもそろそろ次の段階にはいってゆくことになりそうだ。